人気ブログランキング | 話題のタグを見る

からだの闇に耳を澄ます



<
2006年9月8日

●下等動物の体感になりこむ

このごろ一日のうちかなりの時間を
目隠しをしてすごしている。
日課となっているゆらぎ瞑想も、
灰柱の歩行も目隠しをしてするのがいい。
外界を目隠しの灰柱で歩行するのはもっといい。
からだの闇の手ざわりが濃くなる。

いろいろなクオリアを咸じる。
さまざまな思いも立ち上ってくる。
このクオリアや思いとはいったいなんだろう。
人間のような高度に発展してしまった生命体を
もとに考えるのは複雑すぎる。
それを生命の原初形態から捉えなおしていくのが私の方法だ。
アメーバや粘菌も彼らなりのクオリアを感じている。
わたしはかれらの体感になりこんでいく。

すべての体感クオリアはゆらいでいる。
生きているという生命クオリアが
さまざまな方向にふくらみ、
ゆらぎ、しぼんでいく。
快不快方向にゆらぎ、
安不安にゆらぎ、
全不全のあいだを
ゆらいでいる。
アメーバや粘菌もこのように
ゆらいでいるのか。
自分自身がそういう脳も神経もない生物に
なりきったつもりでかんじて見る。
アメーバが無理なら、ウミウシでもいい。
粘菌もウミウシも、
いやなものを嫌がり、
好むものに近づいていく。
生命の根幹が何なのかをつかむには、
この下等生物へのなりこみを続けて
原生的な生命感覚を磨いていくのが
もっとも確かな道なのだ。

人間の脳のニューロン細胞は粘菌そっくりだ。
ニューロンが伸びていくつものつながりを作っていくのは、
粘菌同様、おいしい物質に誘われて伸びていく。
最近の脳科学はその物質を
神経成長因子(NGF)と名づけている。
脳の中に新しいネットワークができるとき、
ニューロンの到達すべき標的部位が
神経細胞の生き延びに必要なNGFを分泌する。
それがニューロンを引き寄せて伸張させているという
精妙なプロセスが解明されつつある。

私たちは脳で感じていると受け取っているが
脳の個別の現場では粘菌そっくりのニューロンが咸じている。
私が粘菌になりこむ修行を長年続けてきたのは
クオリア発生の精妙な現場を咸じられる
高性能なからだになるためだった。
いまから振り返ってそういえる。

人間が何かのクオリアを感じているときは、
脳内のニューロンループが、
連結発火していることまでは分かってきている。
だが、なぜ、ニューロンループが連結発火すると
クオリアや思いがわきあがるのかは
誰も解明していない。

脳のニューロンになりこむと、
ニューロンループの発火によって
微細次元で励起し続けている
ひも共振ループになんらかのしかたでコネクトすることで
クオリアを咸知することができているのだという感触がつかめ

る。
わたしたちが色鮮やかなクオリアをこんなに
すぐさま想起できるのは、
どこか外部記憶装置のようなところで振動し続けている
ひも共振に触れられるからではないか。

だが、それを証明するのに何百年、
何千年かかるか分からない。
それほどひもの世界はまだ人間の科学力にとって
近づきがたいほど遠く、微細なのだ。
だが、クオリアや思いはすぐ手元にある。

そんなことを思いながら灰柱で歩いた。
いつものように壁についた。だが見ればなんと
90度以上も湾曲して歩いていた。
まったくそれが感じられなかった。
方向を咸知するからだの原生覚が
思考によってお留守になっていたのだ。

休みの練習場に
近所のルンタハウスの日本レストランで働く
直子さんとその子供たちが遊びにきた。
インドで生まれ育ったチュニとチカだ。
かくれんぼをしようというので
目隠しをして歩かせた。
すると、9歳のチュニと5歳のチカは、
物怖じもせず普通の速度で歩き出した。
大人ではこうはいかない。
いきなり視覚を奪われれば
おっかなびっくりのへっぴり腰になる。
だが、子供たちは視覚などなくても
自分がどう動いているのかが分かる原生的な感覚を
たっぷり持っているのだ。
いつのまにそれを失ってしまうのだろう。
失わずに大きくなる道もあるのだろうか。
子供と原生覚の関係は興味深い研究領域だ。
# by subbody | 2006-09-09 18:15 | 舞踏学校日録

インド人に学んだ原生覚

2006年9月6日

●インド人に学んだ原生感覚

これが9月の課題だ。
じっくり取り組んでいこう。
現代人が自分のからだからはぐれてしまうのは、
どこかでこの原生感覚を見失ってしまったからだ。

ヒマラヤのインド人から学んだ最大のことは、
彼らが日本人にはない
深い原生感覚をもっていたことだ。

学校の建設工事中、なんどもインド人の左官や大工とぶつかった。
日本人とインド人ではまるで美意識が違うので、
お互いに理解することができないことが多かった。
業を煮やして、なんで何回言っても分かってくれないのだと
怒ってしまうと、もう午後からはいなくなる。
翌日も来ない。
かれらは居心地がすこしでも悪いと感じたら
動物的なからだの勘で即刻その場を離れ、二度と近づかない。
日本人なら言い訳したり、謝ったりして
何とかその場にいることを守ろうとするところだ。
だが、そんなことをして、自分に
無理を強いているから、病気になるのだと思った。

日本人は訓育調教されて社会の家畜になってしまっている。
心身症や成人病のほとんどは家畜病だ。
その場にいることを我慢しすぎなのだ。
私も職業人時代何度胃が焼ける思いをしながら
耐え忍んだことか。
お影でそれをごまかすために酒を浴びては
さらにからだを壊していった。
30代のとき
狭心症(突然心臓に五寸釘が刺さるような痛みを感じた)、
通風(足の親指の血管内にガラスくずが入ったような痛さだった)、
肥満(55Kg→80Kg)、アルコール中毒(毎夜一升酒)、
ニコチン中毒(一日200本ロングピースを吸っていた)、
睡眠薬中毒(酒とハルシオンを混ぜて飲んで酔いつぶれてはじめて眠れた。
ハルシオンの副作用でいつも機嫌を悪くしていた。)
まあ、これだけの成人病が一気に噴き出してきて、
さすがにあわてた。
食事療法とスポーツ療法を併用して、
10年ほどで元に戻った。
だが、今度はスポーツ中毒で
トライアスロンに十年間はまった。

さんざんな中年時代だった。
自分が何を生きたいのか、
懸命に探しながら、自分を見失い続けていた。
それらの愚かな道迷いからようやく抜け出られたのが
45歳にして舞踏家になろうと決心したときだ。

踊り手になって今年で12年。
ようやく、生命体としての原生感覚を
具体的に豊かにしていくことが
もっとも大事なことだと分かってきた。

この秋はじっくりこの
原生感覚を取りもどす方法に
取り組んでいこう。
# by subbody | 2006-09-07 05:11 | なぜ日本にいてはだめなのか

からだの闇に原生感覚を探る

からだの闇に原生感覚を探る_e0073644_4413783.jpg
2006年9月6日

●闇の灰柱・闇の粘菌

人間以前の生命体としての
原生感覚を磨きぬいていくこと、
これがサブボディ舞踏の練習の
土台のなかの土台だ。
以前は意識を止めることに重点を置いていた。
もちろんそれが大事だが、
視覚が奪われ、
否応なく原生覚を開こうとすると、
意識を使っている余地などなくなる。
これのほうが無理なく意識を捨てられることに気づいた。

1.闇の灰柱
目隠しをして灰柱の歩行を行う。
フィジカルなからだはすべて燃え尽きてしまう。
崩れやすい灰柱に変成したからだを
できるだけゆっくり運ぶ。
からだに起こるクオリアをすべて咸じながら歩く。
重力、ゆらぎ、呼吸、軸足の作り方、
重心の移動の仕方、足の裏、皮膚、骨、
音、内臓、情動、感情、関係覚、……

微細なクオリアを拾いながら歩くと、
日常の意識状態とはいかにずさんなものかが分かる。
からだに感じられる微細なクオリアのほとんどを
見逃して生きていることに気づく。

つねにこの体感クオリアと共にある状態を保つ。
これが一本目の課題である。

2.闇の灰柱ゆらぎ
からだで感じられるクオリアのうち、
なにか気にかかるクオリアがあれば、
それを増幅して追求していく。
自然に出てくる動き、
ふと思いついた動きが
あればそれに従い、からだごと乗っていく。

3.闇の粘菌その1
目隠しをして脱力した粘菌アメーバのからだになり
壁際から中心部に向かってローリングで進む。
下肢がもう一方の下肢を越えるので、
骨盤から反転してローリングしていく。
真ん中辺で他の粘菌に出会えば
乗り越えるか、下に潜るか、
向きを変えるかして壁際まで進む。

4.闇の粘菌その2
脱力した粘菌アメーバになり、
水平、矢状、戸板の三次元方法への
粘菌ロールでゆっくり移動する。
他の粘菌に出会えば互いのからだに触れ、
味わいあい、出会った部位を押し付けあって
盛り上がっていく。
ふたつのからだを押し合って
立位まで盛り上がれば
ふたたび粘菌に溶け落ちていく。

5.闇の皮膜デュエット
壁際から灰柱で真ん中まで進み、
ほかの生き物に出会えば
不触不離の皮膜の距離で
互いのからだをまさぐりあう。
手だけではなく全身の皮膚を開いて
触れ合わす。
頭と脚、胸と尻、顔と背中、……
無数の部位と部位が出会い、触れ合う。

6.庭の皮膜デュエット
5の動きを外界で行う。
風、光、樹々のざわめき、鳥の声、……
一気にさまざまなクオリアが振りかかってくる。
そのなかで原生感覚の蘇りを
たっぷり楽しみ、味わい、からだに刻印していく。

もっと詳しく読みたい人は、
サブボディ舞踏スクール ヒマラヤ
http://subbody.com/の「舞踏学校ジャーナル」へどうぞ
# by subbody | 2006-09-06 04:42 | 舞踏学校日録

クオリア透明体

●●クオリア透明体

このクオリア透明体は、
ほぼサブボディ舞踏の最終の境地だ。
何年かかるか分からないが、
こういうからだになりたいと思う。
実際からだに変化が起こるには
ずいぶん時間がかかる。
十年単位で自分のからだと付き合っていく
気の長い時間を知らなければならない。

●クオリアの通るからだになる

人間のからだはエネルギーで動くのではない。
エネルギーは単に粗大なからだを動かす燃料に過ぎない。
人間を動かしているのは生命とクオリア流だ。
(クオリアとはからだで咸じるもののすべてだ。)
クオリアによって動きの方向や質や速度や
それに使うエネルギーなどの総体を制御している。
エネルギーなどという大雑把な機械的物質概念を
人間のからだに適用してはならない。
アインシュタインが物質とエネルギーが同じものであるという
相対性理論を発見してからもう100年経つのだ。
いい加減自分がエネルギーで動いているなどという
自己誤解から覚めねばならない。
からだをエネルギーで動かすという妄想にとりつかれることは、
自分を物質だという誤解にとりつかれることだ。
アスレチックジムで、機械と格闘しているマッチョマン、
マッチョウーマンのロボットダンスになる。
そういう粗大な感覚をそぎ落とさなければ、
からだを伝う生命とクオリア流が透明に見えるからだになれない。


からだは、多次元のからだの闇と一体である。
そこを複雑精妙なクオリア流が流れている。

●からだにさまざまなクオリアを通す

ゆらぎ瞑想から呼吸、三元、灰柱など
一通りの調体を済ませてから、この練習に入る。

・こわばりのクオリアを通す
――足指または手指をぎゅっと握りしめる。
そのこわばりが、足首(手首)に伝わる。
次々と隣接する部位にこわばりが伝わりからだを通り抜けていく。
通り抜けた後は平静に戻る。

・こわばりがからだに満ちる
――からだのどこかの一部がこわばりだす。
それが隣の部位に伝染する。
通り抜けるのではなく、
じょじょにからだ全体がこわばってしまう。

・ゆるみのクオリアが通る
――こわばりきった全身の一部から緩みだし、
次々と隣の部位にゆるみが伝わり
通り抜けていく。
通り抜けた後のからだは
再び硬化する。

・ゆるみのクオリアに満ちる
――こわばりの場合と同様、
からだの一部から、隣接部位、
そしてからだ全体が緩みきる。

(以下、それぞれのクオリアについて、
通すと満ちるの両方、あるいはいずれか一方を練習する。)

・震えのクオリア
・うねりのクオリア
・気化のクオリア
・ヒューマノイドのクオリア
・粘菌のクオリア
・石のクオリア
・ラッパムシのクオリア
・獣のクオリア
・引き裂かれのクオリア
・バツの悪さのクオリア
・しり込みのクオリア
・無理強いのクオリア
・憤怒のクオリア
・悪霊のクオリア
・衰弱のクオリア
・瀕死のクオリア
・死のクオリア
・無のクオリア

・その他、自分で思いつく限りのクオリアを通す。

●クオリアの通り道

・よじれあう螺旋
人間のからだには直線はひとつもない。
すべてのクオリアは微細な螺旋が複雑微妙に
よじれあった経路をにょろにょろと伝わる。

・多次元連結
ひとつのクオリアがにょろの経路を通るからだになったら、
次の段階では、
からだのどこかを通るうちに異次元が開畳して
別のクオリアに微妙に変質するのを咸じとる。
クオリアが至るところで変容流動するからだになる。

・固有のタイミング
開畳する次元の性質によって、
まるで異なったタイミングで変容する。
ひとつのクオリアの次に
絶妙の<破>のタイミングを見せて
次のクオリアがひとりでに開畳する
からだになるまで練習を積む。

じわじわ、さっ、おろおろ、ドン!
ギクシャク、べろべろ、……
クオリアに応じた固有の序破急を聴き分け、
夾雑物を取り去り、
通っているクオリアが
もっとも透明に見えるからだになる。

●クオリア透明体

以上がすべてできるようになったら、
クオリア透明体のサブボディソロを
ひとつつくってみなさい。
ひとつひとつのクオリアを大事にし、
それぞれのクオリアがもっとも透明に見える
たったひとつのタイミングを見つける。
どのクオリアの次にどのクオリアが開畳すると
両方のクオリアがもっとも引き立つか、
最適の序破急を見つける。
それをフィックスし、からだにしみこむまで練習する。

即興はとても大事だが、いつまでも即興だけでは
深い美を彫琢する技量が身につかない。
一世一代の振付けができたら、
それをさまざまに異なる場で開畳し、
場との即興的対応力を身につける。
やがて、即興と振り付けの区別がなくなるところまで
自分固有の即興と振付けとの絶妙の関係を見つける。

●花と謎
最初は自分が何を踊っているのか分からなくていい。
言葉で説明のつくような浅瀬のクオリアなど
踊っている暇はない。
ことばになどならないものだけを踊る。
からだの底からやみがたく強い力で立ち上がってくる
謎のクオリアだけに突き動かされて踊りをつくる。
その踊りを十年ほど踊り続けたあとで、
自分が何を踊っていたのかがおぼろげに分かってくる。
それでようやく心身が透明になりだす。
踊りの中の花と謎がはじめて目鼻立ちを持ち出す。
透明体への変成はとても長い時間がかかる。
十年以上の時間の単位で
からだの闇の底で熟し実ってくるものだ。
# by subbody | 2006-09-05 22:28 | 舞踏論

治癒とは不全に陥った生命の創発なのだ

9月3日

治癒とは何か。
人間にとっての治癒とは何かについて
根源的に考え直してみよう。

「治癒とは病気や身体症状を契機に、
生命―自全の動向に気づき、
そこからはぐれていた不全状態を解消し、
生命―自全と再びひとつになって生きる道を
発見することである。」

――昨日の「治癒とは何か」の上記の定義に加えて、
もうひとつの定義を付け加えることができる。

もう少し大きく生命史の観点から見れば次のようにも言える。

「治癒とは、大きい目で見れば、
生体に生じた不全状態を解決し、
不全状態に陥ることを避けるような
新しい生き方、やって生き方、
新しい生命状態を創発することである」

生命40億年の歴史の中で、
生命は数々の苦難に出会い、
無限回の不全状態に陥った。
<生命の発生―発展―不全―創発>
生命はこのサイクルを繰り返すことによって、
出会った問題をことごとく解決し、
乗り越えてきたのだ。
ひとつひとつの個体の治癒もまた、
この生命史の中で行われる創発の一コマだ。

そう考えると楽しいではありませんか。
私たちは自分の病気を治癒する創発によって
生命史の一コマに参加できる。

「治癒とは不全に陥った生命が行う、生命の創発なのだ。」
# by subbody | 2006-09-04 04:17 | <自分の全体>について